昭和42年9月8日 夜の御理解
信心によって、分からなければならない、根本的なところとは、根本的なところという事がいわれます。やはり、焦点を、間違えてはならない。根本的なところを抑えていくという。根本的なところを、探求するというような事を申しますが、今日、私は、あの、午前中に、期せずして、あの、赤ちゃんの初参りを、二つ、前後してお取次ぎさして頂きました。あの、先に、善導寺の原さんのところの、千恵子さんが、丁度、今日が日晴れで、お礼のお届けがございました。お赤飯なんかの、お供えを、お下げ頂いてから、あちらでお茶でも頂かせていただこうかと、用意しよるところへ、丁度、椛目の篠原さんが、親子四人連れで、親子、その初参りのおかげを頂かれて、だから、同日に、まあ、生まれという事になるのですね。今日が、あの、日晴れっていうですか、何ち言うですか、やっぱ日晴れですか、ああ、日が晴れるというですかね。そんなふうで参拝でございました。その、二人の赤ちゃんの、お礼お届けをさして貰う、それに対する、それぞれに対する、その御理解を頂かせてもらいながら、本当にあの、信心の根本的なところという事を、私は、あの、こういうところに、信心を、いや、思いを置いての、私は、信心になったら、おかげが頂けるんだなあという事を感じたんです。先にあの、岩井千恵子さんといいますが、名前は良一さん。もう、これなどはあの、千恵子さんが生まれる二、三ヶ月前に、息子さんのお知らせを、御夢の中で頂いて、名前までも良一といって頂いておりましたから、もう、頂いておった通り、岩井良一という名前が付けてございます。篠原さんところも、大変、難産の気配があったんですけれども、早くからお願いしてございました。どちらも二十日の事でございますから、ま、お願いをしてございましたんですけど、どちらも、本当に安産の、まあ、本当に隣知らずの安産と、初産には、珍しいというような、ま、軽いおかげを頂いたんですが、その事をお礼を申し上げることもさることですけれども、親が子供を思うという、切実な心というものは、初めて子供を持ってみて、初めて分かる。子供っていうのは、こんなにも可愛いものかという。ね。いわゆる、今までは子供の立場であった人が、子供を持った途端に、いわゆる、母性愛に目覚めるとでも申しましょうかね。親の心というものが、その、切実な、その切実な、両、ま、婦人に対する、御理解を頂いてから、なるほど神様は、その信心の程度なりではありますけれども、その、いわゆる、要のところを、教えて下さるんだなあと私は思うたんです。もう、原さんところの、いや千恵子さんの場合は、こういう御理解でした。もう、一番初めに、今晩、青年会に来ておりますね。原 昌一郎さん、兄さん。兄さんが、一番初めに、椛目にご縁を頂いたのは、あー、入学試験の時だった。高校入学するというので、お願い来たのが初めてのご縁で、それから、兄さんが、大病に掛かられ、そして、医者も見離し、もう、内々では、お葬式の準備をしてから、その、枕辺に、都合よう集まらなければならんという風にひどかった。とうとう、医者は見離し、見放したわけじゃないけれども、注射を全然受け付けなかった。ね。その場合を境に、原さんところの一家の今日の信心の、いうなら、基礎と。私共夫婦が、一生、神様のご恩を忘れることじゃございません。一生、信心の稽古をさしてもらいまして、夫婦のものが日々、ご参拝のおかげを頂きますからという、お届けを境におかげを頂いたんですよね。また、もう、十七年かになりますか、それこそ、夫婦の方たちが、一日とても欠かさず、あーして、お日参りどころではない、もう、お母さんなんかは、朝晩お参りをするというように、善導寺から参って来ますように、熱心におかげを頂いて、そういう中に、千恵子さんを育てられた。小学校も中学校も、そういう中におかげを頂いて、ご縁にならせて頂くのも、御神縁を頂いて、どこからもらわれても、ごご神意かなかったら、もう、断らせてもらう。ね。神様の御神意、お許しを頂いたところでしか行かんというような、いわゆる、神様に、おすがり、一辺だおしで、その、おかげを頂いてまいりまして、現在の岩井健一さんという人に貰われた。ね。だから、その時のこと、ね。その時のことを、思わしてもらい、ね。子供が、例えば、病気をするとか、ね。さあ、熱発をしたとか、おなかが痛んでおるだろうといったような時に、ね。そこんところを、思い出させて頂いて、例えば、主人を大事にして行ったら、また、その時のことを思い出させて頂いてです。ほんとに椛目に御神縁を頂いた、その娘の時のことを思い出させて貰うて、それから、私共の信心がここで育てられて、今日のおかげを頂いておるという事。ね。ですから、まあ、言うならば、一番手前の自分の主人に貰われた時のこと、そして、もう、ほんとに、私の勿体ないような、主人に恵まれてと言うて、喜んでおったときのその気持ちを、思いださせて頂いたら、子供はおかげを頂くだろうという、御理解でした。もう、子供の事は願うことはいらんのです。信心の根本的なところというのは、私は、その御理解を説かせて頂きながらですね。あのー、私は、その辺がどうしても分かりませんでした。教祖の神様が、信心は、信心初めのことを忘れなかったら結構ですと仰ったそうですねえ。だから、私は、その事を実感的に、そら分からなかったんです。今日はその、千恵子さんのお取次ぎをさせて頂きながら、ははー、その時のことを忘れなかったら、おかげになると言う事ですね。例えばこの、子供の病気に致しましてもです。その時のことを思いださせて頂いたら、私は、あの、そもそもの時の事を忘れておった。ほんとにこの、岩井家に嫁入ってきた時のことを忘れておった。あの時、本当に主人を有難い。こういう人に貰うて貰ってと思った事を忘れておった。その事を思い出させて頂いて、お詫びさせて頂いたら、おかげになる、そういう道なんです、御道の信心とは。この事ば一心に、子供の事ば願わんならん。そうじゃないです。勿論親ですから、願わなければいけませんけれどもです、ね。そういう、例えば、あの、信心の根本的な、そこに触れて、そこに気付かせて頂いたらね。おかげになるのが御道の信心なんです。本当に、もう、年月がたってまいりましたら、夫婦の間でも、もう当たり前のように思うて、いわば、どちらからでも、まあ、見たらんような思い方が出来てくるような中にあって、ふっと、その、何か子供に、お気付けでも頂いたときに、気付かしてもらう。そこに、夫婦が仲良うしていくという事が、取り戻されただけで、昔のことを思い出させて頂いて、あの、兄が助けられて、御神縁を頂いた時の事を思い出させて頂いたら、あそこのが、部位がおかげを頂こうぞ、育ちもしようぞというような御理解でした。それを取らせて頂きながら、信心の根本的なものというのは、そういうような事なんです。難かしゅう言うて、信心とは、こう言うようなものだと。そら、理屈っぽく言う事も何も要らん、信心とは、その、根本的なそこんところに、気付かせて頂くという事で、おかげの受けられる神様。その事で、ほんなら、子供だけのことではありますまい。もう、万事が、おかげを頂いていくでしょうね。そういうあり方なんかは、難儀な困った問題の時に、ほんとにその時のことを思い出させて頂だけば、なるほど、結構でありますという事になってくるのです。篠原さんが、お参りされてからなんですけど、こちらは、まあ、信心が椛目におる時分は繁々とお参りしてありましたけれども、もう、その、熱心に信心を求めてという程しの事ではございませんでしたけれども、その、子供さんに対してですね。あの、お母さんに対しましてからですね、例えば、今日は、その、その子供さんがね。こう、子供が筋をひく時があるでしょうが。ああいう状態だと頂くんですよ。そして、例えば、こういうように、親が慌てふためくような場合であっても、医者や、薬やと言うなと、先に。ね。これが親に対するお気付けだと思うて、おかげを頂けばですね。おかげを受ける。例えば、子供が、腹いっぱいといったような大変なことに、なろうというが怖い、荒くれる時でもです。ね。慌てるなという。ね。これは、子供によって、親が信心のお気付けを頂いておるんだと思うて、お参りをしてくる、お礼、お届けをさして貰う、お願いに来ればです。子供は助かると仰る。これなんかでも、信心の根本的なものなのです。ね。どうぞ、子供が、うなじの筋がひきづらしてからお願いしますというなら、根本的なものじゃないです。ね。こどもが、例えば、そうして、子供の病気のままで良いとさえ仰るぐらいですから、ね。子供は、どうかという時に、親が、はっと、自分が気付かしてもらう。自分のことを、不成就になっとるから、自分がこういう事を思うておるから、こういう事をしておるから、と、気付かせて頂いて、本来の信心の姿にもどった時に、子供はおかげ頂こうぞ、医者だ、薬だと言う事はいらんぞというような、まあ、そういう事を頂いてです。お母さんが、もう、涙一杯ためて、感激するんですよ。ね。それほどおかげを受けておる。本当の御神愛なんです。はー、この子が、例えどのような場合でも、本当に、神様を思いださせて貰うて、神様と言うておすがりすりゃ、その時助けて頂くという事が分かるんですね。そんなに言うてから、どうぞその、お赤飯をお供えしとりましたから、どうぞまあ、お赤飯、いわば、原家と篠原家とが、あー、交換して、頂きあって、同じところで、銘々に写真機を持ってきてありますもん。で、銘々に先生に抱かれて、ちょっと、あの、子供を写したいというので、食堂のほうでまあ、みんな写りましてから後に、その、おー、二人の母親が、一人ひとりの赤ん坊を抱いて、私を中心にして、写真に、写らして頂いたんです。貴方どもは、信心が続けられて、この子達が、まあ、例えば、二十年なら、二十年たつようになってから、言うなら、もう青年会にも入らせて頂いてから、お琴、舞はというような話が出来れば、あの時の写真を見て、もう、ほんとに両方ともですね。取り違えるごと可愛らしいだけじゃなくて、よく似ておるですよね。そら、顔見たって洋服だってよう似とりましょうけど、本当にあの、この重さからですね、顔色が二人とも、非常にあの、顔の綺麗な子ですがね。それよりも、あの、今にも取り違えらっしゃらんというごと、片一方が水色の着物、片一方が白の着物着とるから、いいけども、本当に、あの、取り違えるようにあるんです。ね。それが例えば、二十年後にです。ほんとに、例えば、親が信心が続けれれていくならば、子供達がまた、ほんなら、ここの青年会員として、おかげ頂くようになって、二十年前のことを、あの時に、親達がお赤飯を取り交わしてから、お祝いし会うた時のことを思い出させて頂いて、ね。ほんとに、親というものは、こういうような、一つの、祝杯と申しましょうか、同日に生まれて、同日に、しかも、話し合ったように、えー、いわゆる、天地の親神様、いわゆる、大生神様に対してですたい。お参りが出来たときのことを、この人たちが、ま、会として、その、話し合うような時があるだろう。というのは、やはり、親の信心が、只今言うような根本的なところに触れての信心になり。そして、信心が続けられていくならば、そういう幸せを見る、感じるおかげの受けられるような事になるだろうと言うてから、ま、話したことでございます。ね。私は、今日の二人のその、お届けをさせて頂きながら、はー、根本的なところに触れてといったようなものは、このようにも見易い事であるということでございます。ただ難儀や、目の前にぶら下がった、その難儀の、ぶら下がっている問題を、どうぞ右にして下さい、左にして下さいという、それは、切実なんですから、そう、願わなければなりませんけれども、よくよく分からせて頂くとです。そういう根本的なところに触れますとです。ね。触れただけでおかげになると仰るから、たまがる。如何に、本当のことを、この神様が私どもに、求めたもうておるかと言う事が分かります。ね。願うことを、というのじゃなくてから、この根本的なところに息子が思い分らせて貰う。ね。そこから、信心が、いわゆる、母性愛的な、その、心持が、神様に向けられる。そこに、神様に通いもすりゃ、通じもするおかげ。しかも、その教えにのりとった、御道の信心の御流儀に基づいたところの、おかげの現れ方というのが、そこにあることを確信いたします。ね。お互いがそれぞれの、こう、二つのことがございますまい、本当のことに基づいての信心。基づいてからの願い。ね。というようなものを、段々、信心させて頂きよるとです、稽古させて頂きよると、その、例えば、願いの信心に致しましても、本当のことに基づいての願いと言う事が出来るようになってくると、こう思うのです。どうぞ。